COLUMN
G-FREAK FACTORY 打たれる出た釘・打たれない出すぎた釘 第六回
あけましておめでとうございます。寒さが続きますが今年もどうぞ宜しくお願いします。さてさて2018年は完全プライベートでカウントダウンジャパンat幕張メッセからロサンゼルスに飛んできました。ここ数年はこの年末年始をライブやらレコーディングに従事してましたが、今年は思い切って栄養をもらいに行こうとなったのです。なんせ急遽行けることになったのでチケットを取ったのは12月23日という突貫旅行。大晦日に当然のように成田にホテルを抑えて一泊していざ早めに空港へ。出発便を確認すると俺が乗るはずの便が出発便の予定に無く、チケットを見直したら羽田発という事実に気づくのです......。恥ずかしながら浦島太郎は羽田から国際線が飛んでいることを知らなかったのです。慌てて成田から羽田行きのバスに飛び乗ったのが旅の始まりです。
1993年から4年間をロサンゼルスで暮らしていました。当時のアメリカの治安は最悪で、ボロボロの車で営まれるストレス社会と統率の取れない銃社会をヘリコプターが日夜にわたって監視していました。日本での安堵感と比べながら、心のどこかに常に不安を抱えながら生活していたのを覚えてます。そこから20年もの時が経ち、時代が変わってあの頃の空の監視や過剰な職務質問は消えていました。更に何よりもびっくりしたのが絶対に足を踏み入れてはいけないとされていた場所に大型ショッピングモールができて賑わっていたことで、全てが新鮮で、出発前に描いていたイメージは、俺がこの旅で見たロスのそれではなかったのです。人々にお金が有るとか無いとかという意味ではなく、「リッチ」つまりは心身ともにとても豊かに映りました。皮肉なことに幾つかの戦争を経て、ネット文化が自ずと監視システムを作った結果、ここに至った先進国の成功例みたいなものを露骨に喰らいました。日本で戦争や行き過ぎたネット文化にアンチテーゼを感じている俺にとって、ある意味ショックのようなものも感じました。
新鮮なものだけではありません。今のアメリカは社会的反発が少ないせいかラジオのオルタナチャンネルは当時聴いていたものからさほど更新されてませんでした。ロックはまるで懐古音楽のように聴こえてくる錯覚。ストレスレスの幸せの裏にはきっと犠牲になった人もたくさんいたのではないかとも思います。
アメリカ人の陽気なところが残念だと思ってた留学時代も一瞬で思い直してしまうくらい、あの太陽に照らされ続けたら日本人が抱えている全ての病気が治るのではないかと感じるほどにアメリカの空気は強烈で、譲ることのできる人柄を形成していくのだと痛感しました。もはや今の日本の一歩先にある王者の振る舞いとでも言うべき雰囲気をまとう今のアメリカに負けた感覚。それでも味噌汁は世界一という事と、安堵感こそ本当に幸せな事として、浦島太郎は今回の旅を終えました。PEACE YAH-MAN
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