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INTERVIEW

Zephyren代表GEN氏

2016.08.11UPDATE

2016年08月号掲載

Zephyren代表GEN氏

Zephyren:GEN(代表)
インタビュアー:米沢 彰

-ちなみに、Subcietyを離れてZephyrenを立ち上げるに至った経緯をうかがえますか?

Subciety、Nine Microphones、HiLDKのディレクター兼社長としてやっていて、デザイン、営業、プレスも自分でやるし、撮影もやっていましたね。さすがにこれは限界だなってずっと感じていたんです。体制に無理があるというか。そしてK(Pay money To my Pain/※2012年12月30日急逝)もいなくなって。Nine Microphonesって俺にとっては唯一楽しかったブランドだったんです。言葉集をKからもらって、俺がデザインを考えて。それをKに見せようとしたら、Kはレコーディングとかで忙しいって言って、"じゃあこっちで進めとくね"って進めてると、"なんで見せてくれないんだ"って怒ったり(笑)。もちろんちゃんと見てくれるときもありましたけど(笑)。"K、こんな感じかな"ってNineの原稿書いてKに見せたら"この言い回しは違うと思います"って真顔で言われたり。"じゃあ、自分でやれよ"って思ったけど、楽しかったんですよね。それでも仕事をするって感じもなくて、大変だけどあくまでKとの遊び。本当に暇さえあればプレス・ルームでお茶を飲みながらずっと遊んでいましたね。そもそも"お茶を飲んでいます。"は東日本大震災のとき、余震のたびにTwitterに不安を煽る言葉が並んだじゃないですか。俺は落ち着けよという意味を込めて、"お茶を飲んでいます。"とつぶやいたんですよ。クスッときて落ち着いた人がいて、それで少し流行って。震災も落ち着きだしたころにKがプレス・ルームでビールを飲んでるのに"お茶を飲んでいます。"って言いだしてさ、みんなで"お茶お茶"って言って、それから流行りましたからね(笑)。とにかくあの時間が俺にとっては仕事だけど完全な遊びで。それでKが亡くなって、またもとの仕事だけの世界に戻ったんです。楽しいなって思えることがなくなって、なんか、孤独を感じるようになったのかもしれないですね。それから次に自分なりに上を目指していくときに、仕事量に限界を感じていたので、マネージメントを自分でやるのはやめて......これはたぶん、アーティストの影響を受けたのかもしれない。やっぱり、自分もデザイナーとして生きようって思って、事業譲渡したんです。Kがいたらそんなことはしなかったですけど。大変でもなんか楽しいから(笑)。そしたら今度は横さん(UNITEDのベーシスト 横山明裕/※2014年5月13日急逝)も亡くなって――初めてコラボしたバンドはUNITEDだったし、横さんにはなんでも話せたので、横さんもいつもプレス・ルームで"お茶を飲んでいます。"って言っていて、いったいなんだったんだろうあのころ(笑)。今度は相談できる人もいなくなっちゃって。Subcietyが10周年のときに、俺とKと横さんの3人で対談をやらせてもらったんですけど、初めての対談だったので、一番大好きで仲良しな3人でと思って。懐かしいな。でも6年前の話ですから。それで事業譲渡して、順調に売り上げも伸びていって、でも、やっぱりちょっと会社と感覚が合わないっていうことは感じていて、このまま続けていくと、いいものが作れる気がしないというか、自然体じゃないなと思って。仕事面だけじゃなく、自分のスタイルとは違うことが本当に耐えられなくなってきたんですよね。事業譲渡した理由は――海外展開とかも視野に入れてここまできたんだから、もっとブランドを大きくしようと思っていた。いろんなことを間違えながらもここまで大きくしてきたけど、Subcietyはブランドを大きくするって自分の中では決めてやっていたので、売れたときに世の中の見る目が変わってきたのは嫌ではないが、そんなに嬉しくもなく、努力して評価されるっていうのも悪いことじゃないと思ったぐらい。やっぱり人から評価されるよりも、自然体でいられるってことが俺にとっては重要でしたね。Kと横さんを失って、心の底から笑えるようなこともなくなって......。で、辞めようと思ったんです。今でも申し訳ないなと思ってることがあって、2014年10月5日にMOBSTYLESの田原さんと一緒に"Backyard Diary"っていうイベントをやって。僕と田原さんが同じ誕生日で、すごくお世話になっている先輩なんですけど。そのイベントの開催第1回のときに辞めたんですよね。たしかイベントの3日くらい前に辞表出して、"俺、先輩に対して何をやってるんだろう"って。今でも仲良くさせてもらっていますが、それだけは本当に反省はしてます。そんな感情だけで動くのはどうなのかなって思うときもあるんで。ちょっと頭おかしいですね(笑)。

-環境が変わってまたイチからやっていくことになりましたが、今のZephyrenの中にKさんと表現しようとしていた世界が息づいている部分はありますか?

それは、Subcietyにもあるし、Nine Microphones、HiLDKも、それぞれブランドごとのコンセプトがあったけど、すべて自分がやっていたことなので、全体の雰囲気と好きなディテールは残っていると思います。俺は若いころにヴィンテージの古着、スニーカーにハマッて、裏原ブランドも好きで、そのあとハイブランドにいって、自分でスタートするにあたっては仲間のおかげで、自然とストリート・ブランドになって。やっぱファッションを追求していく以上はハイブランドをやりたかった気持ちもあるし、俺の中でZephyrenは、コンセプトによって人格を変えなくても作れるので、そういう意味では自然体でできています。あと、Nine MicrophonesはKが一緒にいて俺が作っていたころがすべてだと思っています。Kが亡くなったあと続けた経緯も、残せるものなら残したいと思ったのと、なによりも両親への形あるものを残すっていう思いがありましたね。Nine Microphonesを続けたことが正しかったのか今でもわからないし、今は俺がNine Microphonesに関わっているわけではないので。やっぱりKがその場にいないんでね。Kはどう言ったかな?って思いはあります。

-それは大きいですね。今のお話ですと、今は以前と比べるとかなり自然体になったということですね。

そうですね。自然体でやっていますね。いい意味で何かを気にすることなく作っています。ストリートもあればモードっぽい雰囲気もあるし、自分の中に息づいたものが作れてるかなって思います。もともとはヴィンテージのマニアなので、デニムとか相当こだわって作ってますし、伝統的なディテールを自分の解釈で再構築するのも楽しいですね。3ブランドで多いときはシーズン600型を超える数を作っていたので、日本で一番企画を考えてるんじゃないかといつも思ってました(笑)。そのときの経験は今も生きていますね。今はひとつひとつ自然と出せるって感じ。うちは型数が多いブランドだと思うんですけど、今は本音を言うとまだ作り足りない(笑)。あのときに比べると、まだ作りたいものを全然作れてないって感じです。ただでさえまだ知名度もないし、まだ全然整備されてないのに、これ以上作りたがってもね。だから、少しセーブしながら作ってる感じですね。でもやっぱり、もっと服作りたいですね。

-今のZephyrenはいろんな実験的要素だったり、"ここまでやっちゃう?"みたいなアイテムもあったり、すでに幅が広いと感じています。

それはHiLDKに通じる部分なのかな。俺なりに、HiLDKでは"遊ぶ"っていうのがあって。まぁ、正直全然売れてなかったですけどね(笑)。ただ、それはすごく重要で。やっぱ実験的なものもやらないと、ファッションってどれだけ進化できるかっていうか、実際は"進化"じゃないんだけど、売れる物を作っても世界って変わらないと思うんですよね。音楽だってそうだと思うんですけど、例えばカッコよくても売れないアーティストっているじゃないですか。その人が売れたときって世界が変わったと思うんですよね。そんなことをファッションでやりたいですね。

-そういうことを今再びやるというのは、また意味が違うようにも感じますね。

やっぱり俺の作る服は俺の作る服であって。ハイブランドとか、量販ブランドとか、そういうものとは違うと思ってるんだよね。ずっと前線で戦ってきたからここまでやってこれたし、何度も這いつくばったこともある。多くの仲間といくつものブランドをやってきて、そうやって離れ離れになった仲間もいる。味方もいれば、敵も多い。でも今はひとつに集約してやっているので、みんなの思いを感じてZephyrenは作っているしね。昔からストリート・ブランドって思われるのもなんかムカつくし、そういう枠組みでは評価されたくないなって思っていますね。生き様って大事だと思うんですよ。ここまで来る途中にいろんなことを生々しくやってきたので、そんな俺の服を感じて着てもらえると嬉しいですね。