COLUMN
G-FREAK FACTORY 打たれる出た釘・打たれない出すぎた釘 第二回
一瞬で世界が変わるような数年前には想像もつかない良くも悪くもコントラストがはっきりした時代になりました。人間自体のスペックは進歩してないのに、求め続けた利便性が編み出した産業を手に入れたら人間そのもののキャパシティを全て超えてしまったんだと思います。いやもしかしたらその発展が故、人間自体が衰えてしまったかもしれないです。便利なのは大いに結構、しかし手軽は少し困る。理不尽な出来事や少々ドライになりすぎた人間関係のシーンに理解ができないことも多数増えてきているのかと思います。2回目の今回は数字を用いてコラムを書いていこうと思います。
数字の中には割り切れない奇妙な数字"奇数"と割り切れる偶然の数字"偶数"があります。皆さんは自分を数字に例えたなら奇数ですか?偶数ですか?自分は根本的に奇数だと思います。割り切れて暮らせていたら、おそらく自分はバンドマンとして失格だとすら思います。しかし最近になって思うことは調和というのはまた別の話だということです。割り切れない奇数同士を足すと、必ず偶数になります。割り切れた偶数に割り切れない奇数を足しても割り切れない奇数になるように、水と油を混ぜたような奇数のループが続きます。割り切ることが不得手な僕らは毎日たくさんの割り切れてない奇数な奴らと足し算をして割り切れる正解を探すのです。
割り切れないことが決して悪いわけではなく、いつでも奇数のようなシーンで予想だにしない奇跡は起こるんだと信じてます。そうです。奇とは奇妙なだけではなく奇跡の奇でもあるのです。では掛け算ではどうでしょうか。奇数同士をかけると必ず奇数になることに対して偶数にいくら奇数をかけても必ず偶数になるのです。割り切れてないことが正解の場面では、掛け算をして割り切ってしまうと本音や本当が割り切れたものに邪魔されてボヤけてしまうのです。
思い出すこと、全てを忘れてアゲていくこと。終わりの始まり、始まりの終わり。目まぐるしい日々、止まって見える現実。もはや正解は解らないというのが唯一の正解。途方にくれるような情報量の中で生きるようになって、街に出なくとも手に入る不自然な時代では人と人が会うこと自体が軽視され憶測だけで判断するニアミスのすれ違いを繰り返しながら古き良きアナログの時代のチャンネルは少しずつ消えつつあります。だから奇数も偶数も全部連れて血の通ったライブというリアルなものに賭けていきたいなと思います。いつかあの日のように帰っていく日が僕らにも来るんじゃないかと思ってます。それも核心的に、そして疑いのないポジティブに。
PEACE YAH-MAN
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