COLUMN
G-FREAK FACTORY 打たれる出た釘・打たれない出すぎた釘 第二十七回
毎日の見慣れた感染者数のキャプションと聞き慣れた知らせ。何周かして悪化した以前の場所に戻るのだが、一発でKOしに来るわけでもなく、徐々に明けかけた風潮の上にカウンターパンチをぶっ込んでくる。これが自粛に疲れた国民の内臓に効いて、以前とは比にならない程のストレスとなって、心ない声を産み続ける。
信憑性と副作用が未確立なワクチン。今のところ免罪符のようなものだという認識。打たない人の考えや主張が報道、斡旋されることはまず無い。我々は事例や経験などの膨大な情報量の中から、自分で"選んで"、自分で"決めて"、そしてそれを自分で"信じて"生きていかねばならない。ライブハウスでいうガイドラインみたいなギャンブル性のもので、何人も答えを知らないし、仮にその選択肢が間違っていても誰も救ってはくれないからだ。
オリンピックの強行開催という矛盾。今までとオリンピックという観点で話し始めたら「ふざけるな」が本音。しかしこれからとオリンピックという観点で話すならば、「どんどんやれ」だった。毎日違う感情が入れ替わる。しかしどうだろう。これは国が認めて斡旋した興行であるが故、シンプルに我々は堂々とライブをしていいことになる。なんならマスクも要らないのでは?とすら思う。これは屁理屈でも開き直りでもなく、筋立てた説明ができるかの論点によるもの。そしてアスリートに罪はないが、悲しいことにビジネスの上で成り立つという観点もある以上、そんな理由からSNS上でもオリンピックに関する主張を避けてきた。
感染拡大の予防に関して過信したのは国民のモラル。それが甘かった。通じなかった。夏の帰省は制限され、追いつかない医療体制に対しては自宅療養政策と。仕事として法律を作る人が完全にルール化を失敗した。威厳は失脚し、信頼関係と秩序の欠落。金銭をばら撒いた。もう騙されない。この騒ぎのツケは必ず今の子供達が支払う寸法になってしまう。ほら、もはやこれは崩壊とも言うのではないか。
90年代から20年くらいかけてじっくり進んだテクノロジー。極端な話ではなく、震災以降の数年の急速な著しい変革に支配された。走り疲れた人の行き場として、キャンプやバイクといった本来のシンプルな趣向に向かう人が増えてきていると聞く。おそらくこれも、本能からくるカウンターなのだろう。より早く浅く広くデジタルを。じっくり深く的確にアナログを。そう考えたらアナログは、つまりライブは最強な贅沢であるべき。今、世界中が災害や戦争で一斉にオフラインになったら、利便性のみを追求してそこに依存を重ねた俺たちはどのように生きていけるのだろうか。
人間だからな、どうか傷つくことなく、傷つけることなく、見失うことなく元気で会えたら嬉しいなと。選んで信じていく。もう一度、人間だからな。 PEACE & YAH-MAN
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