INTERVIEW
KEMURI × 激ロック × バイトル
2017.09.11UPDATE
2017年09月号掲載
Member:伊藤 ふみお(Vo)
Interviewer:吉羽 さおり Photo by 川村 隼也
日本最大級のアルバイト求人情報サイト"バイトル"と激ロックによる"激的アルバイトーーク!"の今回のゲストは、1stアルバム『Little Playmate』のリリースから20周年を迎えたKEMURI。新作『FREEDOMOSH』を携えたツアーも好評のうちに終え、クラウドファンディングで支援を募り無料開催するというツアー、['FREE SHOW!' ~SKA BRAVO SPECIAL TOUR 2017~]も決まり、新しい試みでのライヴ活動も注目されている。今回は、フロントマンの伊藤ふみおを迎えて、アルバイトやKEMURIの今に至るまでの話をうかがいつつ、普段は経験できないような非日常的なアルバイトが体験できる企画"ドリームバイト"で選ばれた大学4年生、後藤和輝さんにもKEMURIのファンとしての熱い想いや、質問をぶつけてもらった。
-今回は伊藤さんが経験してきたアルバイトのお話をうかがっていきたいのですが、これまでどんなアルバイトをしてきましたか。
アルバイトはたくさんやりましたよ。最初にやったアルバイトは、渋谷のファイヤー通りにある喫茶店なんだけど。この間、うちのマネージャーと何人かで30年ぶりくらいに行ったんだよね。そこから始まって、学生のころはお歳暮やお中元の配達のバイトとか、音響システムの設営のバイト──競馬場とか国立競技場の競技場内に音響システムを配置するというバイトとか、いろいろやったね。
-一番記憶に残っているのはどんな仕事ですか。
一番は、最初にやった喫茶店でのアルバイトかな。当時18歳になっていたのかな。ちょうど、高校のサッカー部を引退してから、大学生になってまたサッカー部の活動が始まるまでの半年くらいやっていましたね。そのあとは、そのバイト先を友達に紹介して、僕はまたサッカーに戻ったんです。大学時代も、バイトをするのは部活がオフのときだから、前期の試験が終わったころのお中元の時期と、お歳暮の時期に配達をするとか。春休みに配線の仕事をしたりという感じでした。
-では、長期でやるようなことはあまりなかったんですね。
体育会系のサッカー部だったから、練習もあってなかなかコンスタントにはできないんですよね。ただ、うちは父親を亡くしていたので、バイトはやりました。短期間で割りのいいバイトというかね。肉体労働はなかったんだけど、だいたい日給が1万5千円から、最低でも1万円くらいのものを紹介してもらったりしてやってたかな。
-サッカーにも打ち込んでいたようですが、バンド活動はどのあたりから出てくるんですか。
初めてバンドをやったのは、高校3年生の卒業ライヴでした。ちょうどそのころに、喫茶店でアルバイトをするようになったんですよね。そのオーナーというのが、もともとCOOLS(※1975年結成のロックンロール・バンド。舘ひろしも在籍)上がりの人で。渋谷の不良少年たちの、舘ひろしさんとかあのへんの人たちの後輩だったんです。舘さんは来なかったんだけど、COOLSのジェームス(藤木)さんとかシャネルズの人とか、いろんな人がお店に来ていたんだよね。そういうテレビで見るような、しかもちょっと不良な人たちに会ったり、あとは一緒にバイトをしていた先輩が、原宿の古着屋さんに顔の利く古着のバイヤーをやっていた人で。当時、古着も大好きだったから、その人を兄貴分として慕うようになって。先輩が、西麻布にあったTOOL'S BARでDJなんかもやっていたんですよね。それまでほとんど音楽はわからなかったんだけど、Eddie CochranやBuddy Hollyから聴くようになったり。それをきっかけに、サッカー少年が音楽に傾倒していって、"バンドやりたい"となっていったんです。それで高校生の卒業コンサートに出て。
-そのときはどんな曲をやったんですか。
いろいろやりましたよ。THE ALARMとかTHE JAMとかのUKバンドや、あとは何やったかな......Bryan Adamsとかもやった。
−Bryan Adamsとはずいぶんと意外です(笑)。
当時は、古着のジーンズに、ヘインズの3枚パックのTシャツを着て、ショットのダブルのライダースに、レッドウィングのエンジニア・ブーツを履いて(笑)。
-当時の高校生としてはおしゃれな感じなのでは。
でも、当時はDCブランド大全盛のときですからね。高校生でおしゃれな人っていうとDCブランドで、六本木のディスコみたいな感じだったんですよ(笑)。それとは全然違いました。洋服は好きだったんだけど、DCブランドを買えるほどお金がなかったから。でも当時は、今は3,000円くらいで買える普通のリーバイスの古着でも、1万円近くはしてたし、今なら数百円で買えるヘインズのTシャツも、高かったしね。今に比べると物価が高かったです。
-アルバイト代は、ファッションやバンド活動だったりに?
まぁ、そうですね。ガールフレンドと飯食いに行ったり、洋服代にしたり。あとは体育会系のサッカー部だったから、後輩を飲みに連れていくんですよね。バカみたいに飲むから。後輩に奢る酒代はバイトで作ったりしてた。
-大学を出てからは就職されたんですか。
就職はしなかったです。大学3年生の春に自分たちで企画をしてライヴをやって、そこでなんか掴めたら、リクルートスーツは作らないと思ったんです。リクルートスーツを買うと言っても、今みたいに安いスーツがなかったんですよ。だからスーツを買うなら、無駄にできないなという感覚があったんです。で、そのライヴで何かが掴めたらリクルートスーツも作らないで、大学4年生になったら、卒業後すぐに音楽ができるような時間に充てよう、と考えていて、それでライヴをやったんです。そのころはモッズコートで(笑)。映画"さらば青春の光"の主人公みたいな気分で、街を歩いていたんです。もうエンジニア・ブーツを履いてなくて、ロークっていうブランドのタッセル・ローファーで。古着は古着なんだけど、スリムのスラックスで、MADNESSとかTHE SPECIALSのTerry Hallみたいな格好をしてましたね。Bryan Adamsを歌っていたときから、3年後くらいの話なんだけどね(笑)。
-だいぶ変化しましたね(笑)。
スカに傾倒していたから、THE SPECIALSとかをカバーしたライヴで、「Nelson Mandela」(THE SPECIAL A.K.A)とかをやってました。"今、みんなが意識を持たなきゃいけないと思ってる歌を歌います"とかMCで言ったりしながらね(笑)。なんの根拠もなく音楽やろうと思っていたし、それでスターになったような気分になっていました。当時は、ウルフルズがバカ売れしていたような時代だったんだよね。同い年なんだ、すげぇなって思いながら。大学を卒業してからは、バイトはやってたけど、いわゆる月曜から金曜までみたいなバイトじゃなくて、バブルだったからいろんなバイトがあったんです。友達のミュージシャンとパーティーで1時間くらい演奏して3万円とか、結婚式の二次会で演奏するとかあったんですよ。結婚式の二次会で演奏したら、"あいつらいいな"、"今度、俺が結婚するからそこでも演奏してよ"っていうので、2年くらいは続きましたね。そのときに一緒にバンドをやっていた連中は、未だに音楽やってるし。ソロで一緒にやってもらっているスティールパンの原田芳宏とか、ナベサダ(渡辺貞夫)さんのバンドで弾いているベースのコモブチキイチロウとか、今は辞めちゃったけどザ・スペース・カウボーイズというバンドをやっていたドラムの奴とか。結構、みんなそのあともそれぞれで活動していたんですよ。