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INTERVIEW

KEMURI × 激ロック × バイトル

2017.09.11UPDATE

2017年09月号掲載

KEMURI × 激ロック × バイトル

Member:伊藤 ふみお(Vo)

Interviewer:吉羽 さおり Photo by 川村 隼也

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-そのころ、オリジナルのバンドはどうだったんですか。

オリジナルのバンドは、全然でした。月に1回ライヴをするくらいで、芽が出なかったですね。それで、4年やったくらいで解散するんです。その間に、営業バンドではいろんな歌を歌っていたんですよ。Marvin GayeとかStevie Wonderから、いわゆるチークタイムからダンシングタイムまでなんでもやっていたんだけど、そっちは超快調(笑)。贅沢をしなければ、それで食えるくらいの営業があったんだけど、バブル崩壊とともにパッタリと仕事がなくなるんだよね。

-営業のバンドでいろんな音楽をやったことで、身についたことや感じたことはありましたか。

お金を稼ぐということと、音楽で好きなことをやるのは全然違うんだなということと。望まれていることをやるのと、自分が望んだものをかっこいいと思ってもらうことって、違うんだなっていうのはすごく学びました。あとは歌かな、楽器は未だにそんなに弾けないんだけど、名曲をたくさん歌ったことは、ヴォーカリストとしてためになったんじゃないかな。喉も鍛えられたと思うし。パーティーなんて、何もないところにスピーカーを立てて、ヴォーカルにモニターなんてないから、それでも音程をなるべくとって歌わないといけないし。"音程外してたよ"って酔っぱらいに言われる世界だったから(笑)。そういうのは鍛えられたかな。

-以前、米軍のホテルで働いていたというお話を聞きましたが、それはそのあとですか。

そのあとです。そのバンド、PANINOで、インディーズで1枚CDを出せることになったんだけど、録音しているときに関係がギクシャクしてきて。アルバムが完成するころには、解散するかという話になっていたんですよね。何が原因だったかわからないんだけど。アルバムのリリース・ライヴが解散ライヴみたいになって。もうやってらんねぇなって。当時もう、27歳とかだったのかな。最初は、大学を出て3年だけバンドをやらせて、と母親に言っていたんです。それが4年になり、5年になり、そろそろかなというのもあって。バンドを解散して就職しようと思って、唯一働けたのが、米軍のホテルのセキュリティだったんです。英語が喋れたからね。そこでバイトを始めました。それは月曜から週5日というものでしたね。

-英語はどこで習得していたんですか。

高校生のころ、父親が亡くなってすぐに、今のうちに外国を見てこいと送り出されたんです。1983年とかだったかな。


一度は音楽から離れて働き始めるんですけど、"これでいいのかな"という思いはどんどん大きくなってきた。それがKEMURIに繋がっていくんです


-なるほど、そこからKEMURIへと至っていく流れになりそうなので、ここでドリームバイトの後藤さんにバトンタッチして、KEMURIについていろいろインタビューしてもらいたいと思います。

後藤:大学4年生の後藤和輝と申します、本日はよろしくお願いします。

大学4年生ですか。よろしくお願いします。

後藤:KEMURIさんが走り始めて以来、もう20年以上経っていますけれど、活動開始してから今までずっと"PMA(Positive Mental Attitude)=肯定的精神姿勢"を活動の軸として掲げています。KEMURIのこれまでの20年は正直いろんな大変なこともいくつかあったと思います。それでいながら、どうしてずっとPMAを掲げて、それを音で体現されているのか、ここまで走ってこれたのかについてうかがいたいです。

ひと言で言うとダメダメだったんですよ、人生がね。僕が大学を卒業したのが、1989年のバブル全盛で絶頂期だったんですけど。体育会系の部活出というと、みんな銀行や証券会社だったり、どこでも行けるような状況だったんです。そんななかで"就職しない"と言って音楽を始めて。周りには、絶対にやめろって言われていたんですよ。で、音楽を始めたものの全然うまくいかなくて。そういうなかでPMAという言葉に出会って、そうだよな、頑張ろうって、それにすがるように生きていて。でも1回音楽から離れるわけだよね。最初のPANINOを解散して。それでこれでいいのかなと思いながら、ホテルで働き始めるんです。給料も良かったし、お金はあるんだけど、これでいいのかなと思いながらの生活が1年くらい続くと、その"これでいいのかな"がどんどん大きくなってきて。

後藤:そうだったんですね。

PANINOのときは、時の権力者を揶揄したり、浮かれているような人たちをディスったりする歌詞ばかり書いていたんだけど、感動も共感も得られないままにバンドを解散して。働き始めたけど、これでいいのかなっていうのが大きくなってきたんです。それで、アメリカにもう1回住んでみようかなと思って。アメリカに行くなら、自分の名刺代わりになるものを何か持って行きたいと思ったんです。音楽が好きだから、音楽を作って名刺代わりに持って行ってみようと始めたのがKEMURIだったのね。それでどういう音楽をやろうかなと考えたら、やっぱりスカがいいなと。で、どんな歌詞を歌いたいかと考えたら、自分に対して真摯な姿勢で、願えば叶うというポジティヴなアティテュードを真ん中に置いた歌詞を歌ってみたいなと思ったんです。昔は自分が笑っていたような歌詞かもしれないけど、こういう歌詞を書き続けようと思って。PMAをど真ん中に置いて、歩み始めたのがちょうどそのくらいのとき。それが今に至るんです。

後藤:個人的に伊藤ふみおさんが描く、本当に強い人にしか書けない力強い歌詞が好きで。例えば、『F』(2015年リリース)というアルバムに収録されている「HATE」は──"HATE=憎しみ"なんだけど、"こんなに熱い感情を俺の人生に与えてくれてありがとう"ということまで歌っていますし。ラストの「PAIN」では、"痛みなくして進歩はない"と歌っています。これは強い人にしか書けない歌詞だなと思っています。あいつを嫌いだって言ってしまうのは簡単ですが、許すことというか、認めるというか、そういうことって難しいと思うのですが。伊藤さんが歌詞を書くのはどういうときで、書くときに大切にしているのはどんなことですか。

もう今は、直球を投げるだけですね。例えば『F』を作ったのは2015年だったと思うんだけど、その前のアルバム『RAMPANT』(2014年リリース)を録音し終わった瞬間から、次の『F』のその歌を歌う瞬間までの自分をまず思い出そうとするんです。そのときを切り取った曲が集まることに意味があるのがアルバムだからね。今、この時代、自分にとっての今の時代というのは気にすることですね。それがピンときたときに、言葉が降りてくる。それを自分の感情に対してストレートな言葉で、一番ピンとくる、強い言葉で書こうと思うんです。あまり歌詞について、これはこうですという解説をしない方がいいと思っているんだけど、あえて言うと決して「HATE」も、相手のことは許してもいないし、未だに大っ嫌いだけど(笑)。でも、自分の力にするかしないかは自分だからね。人ってやっぱり、怒るし妬むし許すし、喜ぶし、全部があって人だと思うんですよね。それは、20年前よりも今の方がそう思うかな。