INTERVIEW
KEMURI
2017.06.21UPDATE
Member:伊藤 ふみお(Vo)
Interviewer:吉羽 さおり
1stアルバム『Little Playmate』でのデビューから、今年20周年を迎えるKEMURI。世界的なレーベル、Roadrunner Recordsからいきなりデビューを果たし、日本のスカ・パンク/パンク・シーンを賑わせる存在となり、解散、再結成を経験しながら、現在も国内外でアグレッシヴにツアーを行っている。そのKEMURIの原点であり、入手困難となっていたRoadrunner時代の4作のオリジナル・アルバム『Little Playmate』、『77days』、『千嘉千涙(senka-senrui)』、『emotivation』とベスト盤が、再リマスタリングを経てリリースされることとなった。20年間、揺るぎないポジティヴな思いで音楽とバンドと向き合ってきた軌跡を、ぜひ確認してみてほしい。
-KEMURIがRoadrunner Recordsと契約したきっかけは、どんな感じだったんですか。
ちょうどRoadrunner Japanができたばかりのころ(※1996年)で。当時僕はアメリカに住んでいたんですけど、人づてに紹介してもらって、帰国してオフィスにデモテープを持ち込んだんです。当時のRoadrunnerのバンドと言えば、EARTH CRISISとかSHELTERとか、MADBALLもそうだったのかな?
-メタル系のバンドが強いレーベルですが、ハードコア・バンドの作品もリリースしていたんですね。
どんな感じなんだろうと思って日本のオフィスに行ったら、住宅街の一角にあって、机も当時はふたつくらいしかなかったのかな。随分とイメージが違うなと思ったのは、よく覚えていますね。デモテープを渡して、アメリカに帰って。ロサンゼルスでSHELTERのライヴを観に行ったときに、Roadrunner USAのスタッフがそこにいたんです。SHELTERのRay Cappoにも渡そうと思ってデモテープを持っていたから、そのスタッフにも、"この間、Roadrunner Japanの人にもテープを渡してきたんだ"って話をして渡したんです。そのあと、そのスタッフから"すごく良かったよ"と電話をもらって。その話を今度は、東京で会ったRoadrunner Japanの川原さんにしたんです。"Roadrunner USAの人にも会って。デモテープを渡したら気に入ってくださったんですよ"って。それから少し経って、川原さんから"Roadrunnerのインターナショナル・ミーティングにKEMURIのテープを持って行ってみようと思う"と連絡をもらったんです。そのミーティングで好評で、特にUSAのスタッフも、"今スカ・パンクはアメリカでもすごくタイミングがいいから"と推してくれて。契約しましょうっていう話になったんですよね。
-アメリカにいるときは、他にもいろんなレーベルにデモを送ったり渡したりしていたんですか。
めちゃめちゃ渡してましたよ。THE MIGHTY MIGHTY BOSSTONESを出してたTaang!(Records)というレーベルとか。20年前のことなので、細かく覚えていないですけど。AGENT ORANGEというバンドのメンバーがやってるレーベルにも行ったし、当然Hopeless RecordsやFat Wreck Chords、Epitaph Recordsにも送ったし、Island Recordsにも。ありとあらゆるところに送りましたね。
-そこで実際にやりとりがあったところもあったんですか。
当時、スカのシーンで言うと、小さなレーベルがたくさんあったんです。本当に小さいレーベルから、当時人気のバンドを出していた、Mike ParkのAsian Man Records──当時はDill Recordsという名前だったんですけど。そのDill Recordsですごく気に入ってもらえて、"今度コンピレーション・アルバムを出すんだけど、このデモテープからの曲か、もしくは日本語の曲はないのか?"って聞かれて。"今は日本語の曲はないけど、今度レコーディングするから、日本語の歌詞がつくかもしれない"、"じゃあそれを聴かせてくれ"とか。それで、オムニバスに入ったりもしたんです。あとはもっと小さなレーベルでいくつか、コンピに入ってますよ。渡したデモテープの曲が断りなしにそのまま使われていたところも、いくつかあったけどね。
-それもすごい話ですね。
"あれ? こんなのに入ってる、話したことないんだけどな"っていうのはあったかな(笑)。そういうものが日本に輸入されて、KEMURIって誰なんだ? っていうことはありましたね。
-当時、日本で活動することは考えていなかったんですか。
当時はHi-STANDARDがメジャーから1stアルバム(1995年リリースの『GROWING UP』)を出して、英語で歌っていたけど。やっぱり、日本で英語で歌う意味ってなんだろうという疑問はあったかな。未だにそうかもしれないですけど、当時の方がそれがあった。それで動員のあるバンドはそんなにいなかったし、レコード会社的な考えとしても、これは宣伝すれば売れるんですっていうのはなかったから。欧米でやるきっかけになればいいなと思って、アメリカに住んでましたしね。
-それが、日本でリリースされることも決まって。帰国したときにはKEMURIの名前も知られていたりと、盛り上がりもあったのでは。
それは、1stアルバム『Little Playmate』(1997年リリース)を出してからかな。まだまだ、マイナーなバンドでしたからね。当時は、ストリート・ファッション、カルチャー雑誌が多かったでしょ。
-たくさんありましたね。
それでCOKEHEAD HIPSTERSとかRUDE BONES、SCAFULL KING、COCOBAT、SUPER STUPIDとかね、そういう人たちが脚光を浴びていて。KEMURIがRoadrunnerから話をいただいたときは、ライヴもまだ二度くらいしかやっていなかったんですよ。だから、なんだかわからないけど、ちゃんと曲を作って、真面目にやらないとまずいぞっていう話をベースの津田紀昭とはしましたね。
-当時、KEMURIはバンドとしてどう進んでいきたいのかというヴィジョンはあったんですか。
すごくアバウトだけど、歌いたいことは"P.M.A.=Positive Mental Attitude"というのがあったから。当時もう30歳になっていたから、自分自身を鼓舞するような、まだ遅くはないなっていう気持ちを歌ったり、前向きにやっていれば、夢は叶うはずだっていう、そういうものを歌っていきたい、発信していきたいというのはありましたね。未だにそうですけど、Bob Marleyとかが好きだから、言葉が説得力を持つ活動をやりたいという話はしていたかな。売れるとか売れないとか、人気が出るとか出ないとかっていうのは、考えなかったというか。あとは、楽しくできればいいなって、楽しくやろうっていう、それくらいです。
-それはKEMURIというバンドになってからの考え方ですか。
そうです。KEMURIを始めるときもそういう話はしてましたね。
-それ以前は、伊藤さんが音楽に向かう姿勢や、音楽に込める思いは違うものだったんですか。
うん、やっぱり人気というか、認めてもらうにはどうしたらいいのかっていうのはあったかな。広く、人の評価を得るにはどういうやり方をしたらいいんだろうとかは、前のバンドをやっていたときは考えましたね。
-以前は曲の書き方としても、そういうところは意識されていたんですか。
そうですね、うん。自分たちにできる最大限を尽くしたという感じで。当時は時代も時代だからね、事務所と仮契約していたことがあるんですけど、そういう場所で求められるのは自分を出すことよりも、こういうことを歌ったらいいんじゃないかとか、こういうことを歌ったらこういう人に響くんじゃないかとか。マーケットありきの考え方ですよね。メジャーだから、当然そうなんです。でも、そういうことをやっていても、あまり日の目を見なかったんです(笑)。その反動があったと思うんだけど、"もうあんなの絶対にやらねぇよ。KEMURIでは最初から自分たちがやりたいことをやる"というのはありましたね。いいものを作りたいとか、売れたい、認めてもらいたいという気持ちは絶対あるんだけど、コンサートというよりも、いわゆるアメリカで観たような、日本ではあまり観たことないようなショーをやりたいとか。