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INTERVIEW

打首獄門同好会

2018.01.11UPDATE

2018年01月号掲載

打首獄門同好会

Member:大澤 敦史(Gt/ Vo)

Interviewer:吉羽 さおり

-周りのスタッフなどが、次はやっぱり武道館じゃないかと。

事務所の人が、2014年の赤坂BLITZ(現マイナビBLITZ赤坂)でのワンマン(10月18日に開催した"10th Anniversary Tour Final 「10獄への階段」")とかに挑戦しているときに、"もう何年後はZeppだよ、そして何年後は武道館だよ"って話はしていて。こっちとしては遠い世界の話だから、何をありえない冗談言ってるんだかって、本気で思ってました。

-そんなに人を集められる音楽ではないと、思っていたんですか。

そこもあります。あとは常に、目の前のことしか見ていなかったから。都度5百人なり、千人なりを集めるという目の前の課題しか考えてなくて、例えば自分が1万だ、2万だという数の人を相手にする日が来るのか、生きている間にどこまでいけるのか、自分でもあまり具体的に想像していなかったんですね。

-大澤さん自身、音楽で成功するというのは、いわゆる武道館に立つとか、売れてやるとか、スター的なものになるというのとは違ったんですか。

マニアックというか、売れ線ではない音楽をやっているという自覚はあったので(笑)。ただ、売れ線じゃないにしても、音楽で食っていけるラインはここらへんなのかなっていうのはぼんやりとあって、そこは目指していて。でも武道館はそういう規模じゃなくて、食ってる人の中でもトップに上り詰めた人たちの舞台というイメージがあったから。

-世代的にもそういう場所だという感覚ですかね。

そうですね。BOOWYの"ライヴハウス武道館へようこそ!"の時代ですからね(笑)。そういう特別な、トップ中のトップのバンドじゃないと立てないところだと、子供のころから漠然と認識していたんでしょうね。

-打首が多くの人に求められたのは、サウンドはとことんコアだけれども、歌っている内容は日常的な、お茶の間の感覚もある。そのミスマッチ感が爆発した面白さがありますよね。そこは意識的だったんですか。

それも蓋を開けてみれば、でしたね。狙ってやってるかっていうとそうじゃなくて、好き勝手やっていた背景があるし、現に結成して1年目からこんな感じでしたから。1年目はもっと試行錯誤していたけど、これが一番わかりやすいなってなったのが、今の路線だっただけで。

-ちなみにその選択肢の中には、ほかにどんなものがありましたか。

最初に作ったのが朝ごはんの歌(2009年リリースのアルバム『庶民派爆弾さん』収録曲「Breakfast」)で、それが今の流れに繋がるんですけど、そのほかに一応、真面目な歌を作ったんですよ。真面目な歌を作ってみて、皮肉っぽい歌も作ってみたりして、いろいろと作ってみたけど、やりやすいのはこれだなって(笑)。自然と出てくるし、お客さんの反応もいいから、いいのかなっていう。

-いい感触があったんですね。

しばらくしてJR南武線の曲(『庶民派爆弾さん』収録曲の「今日も貴方と南武線」)を書いたり、同時期にお金がない歌を歌ったりとか、ほんとに今やっているままの布石を当時から打ち出していて。そのへんのウケが良くて"南武線の歌いいですよね、今日もやってくださいよ"、"いいんですか? ここ渋谷ですよ?"っていう(笑)。言われるがままにやってみたら、意外とウケて。それを繰り返してだんだんと固まってきて。俺も作りやすいし、みんな楽しいからいいんじゃない? くらいの感覚でできた路線で、それが受け入れられる規模がここまで膨らむとは......という。

-初めてCDを全国流通したのが2009年(『庶民派爆弾さん』)で、そのころはこれだっていうものが固まっていたんですね。

そうですね。その時期に"FUJI ROCK FESTIVAL"の"ROOKIE A GO-GO"のステージに応募したハガキで、"出ないか"という電話がきて。最初はバイトの面接の電話かと思って取ったのでビックリしましたけど(笑)。そのへんから毎年、"打首はくるぞ"って言われて。毎年言われるけど、でもペースは変わらずじわじわ今に至りました。

-そう言われることにプレッシャーはありましたか。

曲へのプレッシャーはそんなになかったですかね。

-バンドをやりたいって夢中でやってた少年が、武道館に立っちゃったという感じですね(笑)。例えば、10代のころに追い掛けていたバンドを武道館に観に行くこともなかったですか。

中学になるころに、洋楽に走っちゃったものですから。しかもマニアックなメタルのバンドに手を出してしまったので、来日したらラッキーくらいの感じでしたね。しかも当時は、お金が入ったらエフェクターを買うというギター少年だったので、まあまあお金がなくて。ライヴに行くよりも、機材を買うことに(お金を)つぎ込んでしまって。雑誌も何冊も買えないから、どれがいいかってランダムに選んだのが、"YOUNG GUITAR"という感じで、ますます偏っていって。