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INTERVIEW

Pay money To my Pain

2012.10.10UPDATE

Pay money To my Pain

Member:K (Vo) PABLO (Gt) T$UYO$HI (Ba) ZAX (Dr)

Interviewer:ムラオカ

-すごいですね(笑)

P:理解できない……(笑)
そんな感じで、なんとなしにP.T.P.っていうものができて、Kはアメリカに行くんですけど、俺の当時の気持ちとしては、やるんだったらやるだろうし、やらないんだったらやらないだろうし、まあどちらでもいいやって。ただこのメンバーならいい音楽ができるってことは100%分かりきっていたので、辞めずに続けてましたけどね。ただもう、やらなくても別にいいかなって感じで正に“Let it be”で、流れに身を任せようって思っていました。KはKでアメリカでバンドをやっていたしね。

-そうなんですか?

K:うん。

P:俺らは俺らでサポートの仕事やったりとかしてて、ZAXもバンドやってたし、JIN君も他にバンドやってたしね。割とそれぞれがそれぞれのことをやって、でもなんとなく、みんなP.T.P.のこともチラ見してるって状況がしばらく続いてました。

T:俺はもどかしかったけどね。

P:つよぽんが1番やりたくてしょうがないって感じだったよね。

T:“これをやったら絶対カッコいいのになんでやらないの?”っていう理解できないって感じだったんだよね。

P:つよぽんにそうよく言われてたけど、“そんなん知らないよ、しょうがないじゃん”って言ってたもん。

T:でもKは“俺のことを待っててくれ”って言ってたんだけど、実際そうするしかないって思ってたから、やれる時にやるしかないし。でもじゃあアメリカに行ってしまう、それが耐えられないじゃないけど、じゃあ自分は別のことをやりたいって思うんであれば別のことをやればいいし。そういう歯車みたいなものが噛み合ってなくて、今じゃないのかなとは思ってたんです。でももう少し経ったらその歯車が回り始める時がきっと来るんだろうなって思ってたんですよね。

P:とりあえずつよぽんは“P.T.P.をやりたい”って毎日言ってた気がするよ。“やりたいのになんでできないんだろう”って2万回ぐらい聞いた気がする(笑)。

T:2万回ぐらい言ったかもしれない(笑)。

-その時にもういいよと投げ出すことなく、耐えていたんですね。

T:Kがアメリカに行ってから、最初はあえて連絡を取らなかったですもん。しばらく放置したらあいつは寂しくなるはずだと思って(笑)。

-恋愛にそのまま置き換えてもおかしくないですよね。焦らし作戦というか。

T:まあそうですね(笑)。今でも覚えているのが、Kがアメリカに行って初めて向こうから来たメールが、曲だったんですよ。ただ歌っている曲が送られてきて、なんかKらしいなって思ったんですよね。

P:アメリカに行く前にはLOFTでライヴやったり、大阪で無料ライヴをやったりとか結構精力的にやってたよね。その時には「Close the door」とか「From here to somewhere」もあったし、「Against the pill」もあったしね。「Black sheep」はまだなかったけど。

Z:あれって無料ライヴやったん?アメリカ行く前だっけ?

P:あれ?違うわ、1回帰ってきてからやったんだね。

T:Kがアメリカに行く前に最後にやったのは、渋谷のRUIDO K2で友達がライヴをやってて、そこに俺らは観に行っただけだったんだけど、急遽1曲やらせてって言って、幕が開いたら俺らがいるってことをやったんだよ。Kが“今からP.T.P.が渋谷をジャックするぜ!”って叫んだ時に、“うわ!カッコいい!!”ってステージ上で思ったのを覚えてる。

-すごいですね。1つの長編小説が書けてしまいそうな結成ストーリーが満載ですね。

P:なんかでも、そういうラウドロック系のイベントもなかったし、自分たちで好き勝手にやって盛り上がっていたって感じですかね。HPとかもテキトーなのしかなかったんだけど、そこにGUNDOGのファン、僕がサポートやってた頃にライヴに来てくれてたファン、DRUG STORE COWBOYのファンとかが噂を聞きつけて来るみたいな感じでやってましたね。ゲリラでやるから“今日のイベント出そうだから行く”って人もいたし。

-当時はTwitterやmixiもなかったですよね?

P:mixiがあるかないかぐらいだと思う。

-そうですよね。それを考えると本当に熱いファン方たちですよね。
そういった紆余曲折を経て、06年には1stEP『Drop of INK』をリリースしましたね。

P:あの時はすごいスピードでいろんなことが決まったから、タナケンさん(レーベル担当)が“CDを出そう”って言ってきて、さらにアメリカでレコーディングして、PVも撮影しちゃおうってことになってかなりバタバタしてましたね。