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INTERVIEW

KISAKI

2022.12.15UPDATE

2022年12月号掲載

KISAKI

Interviewer:杉江 由紀

まさかの激ロック初登場! なんと2023年でバンド活動歴30周年を迎えるというKISAKIが、1月29日に新宿BLAZEにて開催される"KISAKI BANDWORKS 30TH ANNIVERSARY LIVE「BEYOND THE KINGDOM -TOKYO-」"を前に、このたび彼のここまでの歩みとバンド活動30周年を迎える今の心境について、この場で語ってくれることとなった。のちのDIR EN GREYの母体になった伝説のバンド、La:Sadie's時代の貴重なエピソードや、意外なところでの繋がりがあったというROTTENGRAFFTY NOBUYAとの親交ぶりなど、V系ファンはもちろんのことコアな激ロック読者にもここはぜひともお目通しを願いたい。


今は先輩たちも精力的に頑張ってますし、時代が1周か2周してきた気がするから、 僕らの世代もまだまだやらなきゃいけないことがあるなと刺激を受けてます


-まさか、このタイミングに激ロックで、"V系のカリスマ"たるKISAKIさんからお話をうかがう日がやってくるとは予想しておりませんでしたが、今回はKISAKIさんのことを知らない方々に読んでいただくことを前提に、インタビューをさせていただきたく思います。

いや、僕としても激ロックに載れるとは思ってなかったんで(笑)。せっかくの機会ですから、ここはぜひ僕のことを知ってもらえたら嬉しいです。

-まず、激ロックの読者に最もわかりやすそうなところからお話をさせていただくなら、KISAKIさんはROTTENGRAFFTYのNOBUYA(Vo)さんと以前から親交があり、8年くらい前には雑誌で対談もされていました。つまり、KISAKIさんはV系のみならず、関西ロック・シーンにおける広い人脈を持っていらっしゃるということですよね。

まぁ、僕は来年でバンド活動歴が30周年を迎えることになってましたからね。人脈は広げていったというよりも、そのなかで気がついたら勝手に広がっていたと言ったほうが正しいかもしれないです。NOBUYA君に関してはもともと顔見知り程度くらいの関係ではあったんですけど、僕が凛というバンドをやっていた頃に台湾でワンマンをやったとき、向こうで久しぶりに再会することになったんですよ。たまたま泊まってたホテルが一緒だったみたいで、フロントで"なんかガラの悪い兄ちゃんおるなぁ"と思ってたら、それがNOBUYA君で彼のほうから挨拶をしてきてくれました(笑)。そして、ちゃんと話したのはそれが初めてだったわりに話がすごく盛り上がったんですよね。彼は京都出身だし、お互い関西人同士っていうのと世代も一緒だから共通点も結構多くて。しかも、そのあとは翌年にまた台湾で今度はフェス("山海屯音樂節 HI HEART-TOWN FESTIVAL 2014")で対バンしたことなんかもありました。

-ちなみに、今しがた名前の出た凛も含めると、KISAKIさんはこれまでに様々のバンドやプロジェクトで活動されてきたうえ、レーベルとして"Matina"、"UNDER CODE PRODUCTION"の設立、運営もされてきた経緯がありますけれど、さかのぼれば1995年から1997年にかけて活動していたLa:Sadie'sの存在も、この30年にわたるキャリアの中では、かなり重要なポジションを占めることになりそうですね。

のちのDIR EN GREYの母体になったバンドであった、という意味ではそうなると思います。たしかに、La:Sadie'sは僕にとっても強い手応えを感じながらやっていたバンドで、全国ツアーをガンガンやったり、メディアへの露出などもいろいろあったりしましたから、あの頃の貴重な経験は自分にとって今でも貴重な財産になってますね。ただ、当時はまだ年齢的にいうと10代後半だったんですよ。だから、まだわかっていなかったこともたくさんあったし、時代的にはまだ縦社会のしがらみなんかも多かったですから、その板挟みになってしまうことも多くてすごく大変やった記憶があるんです。結果的にメンバーには過酷なスケジュールを課すことになったり、各メンバーのことを考える余裕もなくなってしまったりということがあって、残念ながら空中分解のようなかたちになってしまったんですけど。そのあと、彼らはDIR EN GREYとして日本を代表する存在にまでなって今もずっと頑張ってくれてますし、そこは僕も誇りに思ってます。

-そんなLa:Sadie'sの次にKISAKIさんが起ち上げたバンドと言えばMIRAGEとなります。なんでも2022年はそのMIRAGEと、MIRAGEが代表格バンドとなっていたMatinaレーベルがともに25周年を迎えたということで、4月には第3期のMIRAGEとしてフル・アルバム『BIOGRAPH』を発表し、今夏にはライヴも行われたそうですね。

本当なら、2016年に凛が解散した時点で僕はバンド活動も音楽活動も終えて第一線からは離れようと思ってたんです。でも、いろんな人から誘われてセッションに出たり、だんだんとまたステージに立つ機会が増えていって、そこからはひとつのバンドの枠にはとらわれず、自由にフリーランス的なスタンスで音楽をやっていく、というやり方もありだなと感じるようになっていたんですが、ここに来てMIRAGEの第3期をスタートすることになったのはコロナ禍の影響が大きかったんですよ。

-MIRAGE復活の背景には具体的にどのような経緯があったのでしょうか。

コロナ禍が始まったときに、いろんなライヴハウスや企業がクラファンをやったじゃないですか。そういうなかで"オムニバス・アルバムを作るから1曲提供してくれないか"というような話が何件かあり、最初は過去の音源をいくつか使ってもらってたんですが、さすがに毎回また過去の音源を出すというわけにもいかなくなってきたんですよね。それで、まずは僕のソロ名義で新しく曲をレコーディングしようと思い、そのときに一緒にやることにしたヴォーカルがAKIRA(MIRAGE/RENAME)だったんですよ。で、その歌録りをしている合間にぽろっとAKIRAが言った"2022年でMIRAGEは25周年ですね"って言葉から、記念ライヴでもしようかという話になって、どうせやるならメンバーも5人揃えて新しいアルバムも出そう、ということでJILSや覇叉羅で僕らと同時代に活動していた舜(Gt)、そして【zo:diaek】のYOMI(Dr)を迎えて第3期をスタートさせる話に展開していったんです。

-そういえば、覇叉羅もこのところまた活発に動き出しているようですね。

むしろ、今は僕らより上の世代の90年代初頭に活躍していた先輩たちも、精力的に頑張ってくれてますし、ちょっと時代が1周か2周してきたところがあるような気がしますね。だからこそ、僕らの世代もまだまだやらなきゃいけないことがあるなと刺激を受けてますし、この間lynch.が初めての武道館を成功させたっていう話題を聞いたときも、ちょっと思うところがあったんですよ。昔、それこそ僕がLa:Sadie'sをやってた時代に玲央(Gt)君とはよく対バンとかもしてたし、今でもなかば腐れ縁みたいな仲ではあるんで(笑)、ずっと自分たちの意思を貫いてきた彼らが今ああいうライヴをやったというのはすごいなと。だから、今は自分の30周年についても先輩とか仲間たちに負けないくらいのことをやっていこう、という気持ちになってます。

-しかしながら、客観的に見ると、ヴィジュアル系シーンでは今やチャートを騒がすようなバンドがいなくなっていますし、かつてのX JAPANのようにドーム3デイズをやれるようなバンドも、今の世代の中にはいないという現実があります。完全に日本発のサブカルチャーとして根づいてはいる一方で、今ひとつ盛り上がりに欠けている状態は懸案事項でもありますよね。

まさにそういうのに近い話は少し前にNOBUYA君ともしたことがあって、いわゆるロック・シーンのほうも今って難しいらしいんですよ。ひとつひとつのバンドは実力や動員があるのは事実としても、フェスばっかりが異常に盛り上がる現象がどうしてもあって、そこはちゃんと考えて変えていかなきゃいけないところだと彼は言ってました。ただ、僕自身はヴィジュアル系が盛り上がってるとか盛り上がってないとかっていうことよりも、今は純粋に自分が好きなこと、やりたいと思うことを30周年のタームの中でやり切ることだけを念頭に置いてやっていますね。

-なお、これまで30年の流れを見るに、La:Sadie'sではアグレッシヴなサウンドに傾倒していた印象がありますし、MIRAGE以降は激しい音楽とともにメロディアスな要素も取り入れつつ、そのあとのKISAKI PROJECTでは美しさと儚さにこだわったバラードを追求してきた経緯もありました。今のKISAKIさんにとっては、激しい音楽と美しい音楽の両方があって然るべきものということになりますか。

僕はもともとX JAPANやYOSHIKIさんに影響を受けて音楽を始めたこともあり、テンポの速い/遅いやサウンドの激しさ/柔らかさなどにはかかわらず、どんな曲にでも必ず美しさというものは入れていくように意識してるんですよ。どれだけ激しくても、美しくて壮大であることは音楽を作っていくうえでとても大事にしています。それはこれから先も変わらないところでしょうね。