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INTERVIEW

MINAMI NiNE

2018.10.09UPDATE

2018年10月号掲載

MINAMI NiNE

Member:ヒロキ(Vo/Ba) ワラビノ(Gt/Cho) スケロク(Dr/Cho)

Interviewer:山口 智男

2011年の結成以来、精力的にライヴを行いながら、"大切な人を想う気持ち"を、飾らない日本語の歌詞と切ないメロディ、そしてダイナミックでエッジーなバンド・サウンドと共に歌ってきた宮崎出身の3人組がいよいよメジャー・デビュー。これまでよりも大きなフィールドで活動する自信と覚悟を込めたSUPER EP『LINKS』をリリースする。本誌初インタビューとなる今回は、『LINKS』の話はもちろん、メンバーそれぞれのバックグラウンドも含め、MINAMI NiNEがどういったバンドなのかも訊いた。


おじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さんでも聴けるような曲をやっていきたい


-もともと、ヒロキさんとワラビノさんが一緒にやっていたバンドにスケロクさんがサポート・ドラマーとして加わったところからMINAMI NiNEが始まったそうですね?

ヒロキ:メンバー3人とも宮崎人になったし、またイチからやろうとすぐに(MINAMI NiNEとしての活動を)始めました。

スケロク:(前のバンドを)1回解散して、1ヶ月後に"(MINAMI NiNEを)始めます!"って正式に始まりました。

-そのまま続けなかったのは、なぜだったんですか?

ヒロキ:前のバンドはもともと、僕が13歳のときに同じ中学に通っていた同級生4人と組んだコピー・バンドだったんです。それを上京してからもやめることなく、18歳のころにワラビノを迎えてからもずっと続けてたんですけど、もともとの形と全然違ってきたっていうのもあって。そもそも、始めたときはヴォーカルがいて、僕はベースだけやっていたんですけど、どんどん人数が減っていって3ピースになって、僕以外のメンバーはみんな変わってたから、そこまで13歳のときに付けた名前にこだわる必要もないだろうと思って。この3人でもう1回、しっかりやろうと思ったんです。

ワラビノ:正直、それまでしっかりやってなかったから(笑)。

ヒロキ:何も考えずにやってたんですよ。

ワラビノ:そうこうしているうちに25歳になっていて。

ヒロキ:"これが最後のバンドだ、ぐらいの気持ちでやりますか"って、ね。

スケロク:そうだね。

-この3人でしっかりやろうって決めたとき、音楽性も変わったんですか?

スケロク:前のバンドのときは、結構速い曲が多くて。僕、全然違うパンクのジャンルにいたから、最初バンドに入るとき、"速いから叩けないかもよ"って(彼らに)言ってたぐらい悲しいというか、暗い曲ばかりやっていて(笑)。でも、僕が入るってなったときに"今度から、おじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さんでも聴けるような曲をやっていきたいから、8ビートが叩ければいい。逆に、そういう曲をいっぱいやりたいから一緒にやっていきたい"という話になったんです。

ヒロキ:実際そういう曲は少なかったですけど、バラードを含めこれまでもやっていたし、どちらかというと、そういう曲の方がみんなが"いいね"って言ってくれることが多かったので、徐々に気持ち的にもそっちの方にシフト・チェンジしていったところもあります。だから、MINAMI NiNEとして初ライヴをやる前に、いっぱい曲を溜めたんですよ。10曲ぐらい新曲を書いて、前のバンドの曲もやりながらではなく、新しい曲だけでスタートしたかったんです。

-心機一転、本当に新しいバンドとして始めたかったわけですね。話は戻りますが、みなさんはどんなきっかけで音楽を聴いたり、楽器を演奏したりし始めたんですか?

ヒロキ:中学校に入ったころ、物心ついたときからうちにあった親父のフォーク・ギターを弾き始めました。

-どんな曲を弾いていたんですか?

ヒロキ:昔のフォーク・ソングです。親父が聴いたり、弾いたりしていた、かぐや姫とか、吉田拓郎さんとか、オフコースとか、イルカさんとか。それは今でも染みついてます。ハイスタ(Hi-STANDARD)やGREEN DAYももちろん好きなんですけど、自分が曲を作るときは、フォークとか歌謡曲とか、中1、中2のころに染みついたメロディが未だにクセで出てしまいますね。そのあと"ポップジャム"という、当時NHKでやっていた音楽番組でBLANKEY JET CITYを見たときに、「SWEET DAYS」って曲をやってたんですけど、まず(BLANKEY JET CITYの)見た目に、"ヤバっ"と思いました(笑)。地元にああいう人たちはいなかったので"なんじゃこりゃ"と思って、そしたら演奏している姿もかっこ良くて、将来こうなりたいと思ったんですよ。そこからロックやパンクにハマっていきましたね。

-そんなヒロキさんにワラビノさんは高校で出会ったんですよね?

ワラビノ:そうです。高1のときに。僕も中学生のときから友達とジュディマリ(JUDY AND MARY)のコピー・バンドをやってたんですよ。もともと楽器を始めたきっかけは、ギターを弾いていた姉の彼氏に弾き方を教えてもらったことだったんですけど、中学生のときにクラスにちょっと好きな女の子がいて、(その子が)"ジュディマリがやりたい"って言うから、卒業式の日にライヴをやったっていう甘い思い出がありますね(笑)。そのあと、青春パンクが流行っていた時代なので、そういうコピバンをヒロキとは別に始めて。そのころヒロキはもうライヴハウスに出ていたので、応援しに行ってました。

-じゃあ、バンドにワラビノさんが加わったのは――

ヒロキ:東京に来てからですね。最初、僕が進学のためにひとりで上京したんですけど、上京して5日目ぐらいに寂しくなっちゃって、ワラビノに電話したんですよ。彼は卒業式の翌日から家にいることがわかってたから(笑)。電話して、"東京に来いよ"って言ったら、"わかった"って、3日後ぐらいにほんとに来たんですよ。

ワラビノ:ギター1本だけ持ってね(笑)。

ヒロキ:それで"一緒にバンドやろうぜ"ってドラムを探し始めて。

-そのあとドラムが抜けたタイミングでスケロクさんが加わった、と。

ヒロキ:地元も一緒だったひとつ上の先輩のスケロクさんに"ライヴが決まってるのにドラムがいなくなったんでサポートで叩いてもらえんですか"ってお願いしたんです。

スケロク:当時、僕はやっていたバンドがなくなって暇だったから"いいよ"って。ひとつ下の宮崎出身の後輩がいて、もともとそことヒロキたちが繋がっていて、"同じ宮崎出身で、頑張っているバンドがいるから"って紹介してもらったんです。