MENU バンドTシャツ

激ロック | ラウドロック ポータルサイト

INTERVIEW

Waive

2025.06.02UPDATE

2025年06月号掲載

Waive

Member:田澤 孝介(Vo) 杉本 善徳(Gt/Vo)

Interviewer:杉江 由紀

有終の美を飾るべく、Waiveは今ラスト・ランのスタートを切った。今年で25周年を迎えた彼等は、紆余曲折の末に来年1月4日に行われる日本武道館公演"Waive「LAST GIG.」"をもって、解散することを表明しているが、昨年発表されたセルフカバー・ベスト・アルバム『BLUE ALBUM』と、5月に出た『RED ALBUM』はこのバンドの偉業を集約した作品となっている。6月21日からのツアー"Waive GIGS 2025「蒼紅一閃 -soukouissen-」"も見逃せない!

-今年1月に25周年を迎えたWaiveは、昨年11月にセルフカバー・ベスト・アルバム『BLUE ALBUM』、そして今年5月には続作となる『RED ALBUM』を発表されました。まずは四半世紀の節目を迎えられた今、その心境について教えてください。

杉本:四半世紀ですか......その言葉を聞いてしまうと急に重みが出てきちゃう感じはありますねぇ。

田澤:たしかに四半世紀って言われると、重みがすごい(笑)。

杉本:まぁ、Waiveは25年間ずっと活動し続けてきたわけではなく、途中には空白期間もあったバンドですしね。もともと僕等が大阪で活動を始めた頃はまだ視野も狭かったし、あんまり先のことまでは考えてなかったんですよ。今日が楽しかったらいいじゃない的な感覚に近いものもありつつだったんで、25年先なんて予想もしてなかったです(笑)。

-当時はまだスマホも普及しておらずサブスクもなく、音楽やバンドをとりまく状況も現在とは全く違いました。当時のWaiveがバンドをやっていくことの楽しさを求めると同時に、何か成し遂げたいと思っていたようなことはあったのでしょうか。

杉本:最初の成り立ちを振り返ると、僕のやっていた前身バンド(Ray)が解散したときに、"新しいバンドを作るのか"、それとも"作家として音楽活動を続けるのか"という岐路に立ったことがあって、以前から付き合いのあった田澤君に声を掛けて始まったのがWaiveだったんですよ。そして、その頃に自分の中で何が最も大きかったのかというと、それは反骨精神みたいなものだったんですね。もっと具体的に言うと、前身バンド活動中に他メンバーが新しいバンドでの活動を始めたことで解散したので、とにかく"絶対そいつらより売れたい!"っていう気持ちが自分を奮い立たせてるところがありました(笑)。

-近年においては、外部への楽曲提供やプロデュース・ワーク等もされている杉本さんですけれど、その時点では作家ではなくバンドとして活動することを選ばれたわけですね。

杉本:作家としての活動は何年か後でもできるだろうし、チャンスもきっとあるだろうなと思ってたんです。バンドの場合は何歳までにこうなりたい、みたいなヴィジョンも持ちつつ動いていたところがあったから、また新しいバンドをやるならタイミングとしては今しかないって感じてたんですよ。しかも、やる以上は、俗に言う"売れる"っていうことが自分にとって唯一の答えだった気がしますね。とはいえ"売れるってどういうことなんですか?"といったら、それに対する考えまでは今思うと明確には持ってませんでした。時代的には、まだまだ100万枚セールスとかがありえた頃でしたけど。

-2000年の年間オリコンチャートを振り返ると、バンドではL'Arc~en~CielやGLAYがそれぞれに100万枚以上を売り上げていたことになるようです。

杉本:たぶん、その頃の自分は、そういう現象を遠くから見て"これが売れるってことなんかなぁ"と思うようなレベルでもなく、単純に"あいつより人気者になってやる"くらいの感覚しか持ってなかったですね。でも、その代わりすごく現実味のある課題が実は1つだけありました。

-といいますと?

杉本:Waiveを始めようと思ったとき、田澤君はもう就職をしてたんですよ。つまり、もうバンドはやらないっていう状況だったんで、僕はそういう彼を口説き落とす必要があったわけです。それには、就職して給料を貰わなくても、音楽が職業として成立するっていうことを実証する必要があったので、僕は"ここから1年でこのバンドをそこまで行けるようにする。もし行けなかったら再就職してくれて構わない"って言ったんですよ。

-杉本さんからそのように口説かれて、田澤さんは当時どのように感じられたのです?

田澤:やっぱり、自分としても好きでやっていたことを諦めたというか、自分に対してしょうがないと言い聞かせて就職したところがあったんで、やっぱり"音楽で飯が食えるようになるんだったら、それは素敵だよな"って気持ちになりましたね。自分で蓋をしていた本当の気持ちを、杉本君に開けてもらえた感じがありました。

-かくして、そこからのWaiveは1度目の解散に至った2005年までの間、シーンの中で目覚ましい活躍を見せていくことになりました。しかも、Waiveの立ち位置はどこか特殊なところがあり、音楽性はもちろんのこと、見せ方の面でも他のヴィジュアル系バンドとは明らかに一線を画していた印象が強いです。Waiveは激しい音楽を刺激的に聴かせるバンドではなく、洗練された音楽を分かりやすく聴かせるタイプのバンドですよね。

杉本:それは田澤君の声を活かした音楽をやる、と最初に決めたことが大きく影響してるからなんです。僕自身はいわゆる往年の名古屋ヴィジュアル系とかが大好きですけど、だからって田澤君にそういうのを歌わせるのは絶対違うんですよ(苦笑)。一方、僕はパンクばっかりを聴いてた時期もあるんですが、それを田澤君が歌うのも違うよなぁと思っていたんですね。 ただ、彼のバックグラウンドにはメタル寄りな音楽もあったりするので、様式美的な、美しいディストーション・サウンドのギターを軸にしたバンドにしていったらどうだろうか、というのがWaiveのスタート地点だったんです。いわゆるコテコテで王道なヴィジュアル系でもなければ、それと反するようなソフトヴィジュアル系でもなく、かといって全員メタラーではないから完全にメタルというわけでもない。Waiveが初期の頃にやっていたのは、そういう流れから生まれた音楽でした。

-そうした初期Waiveの代表曲と言えば、今でもライヴでよく演奏される上、『BLUE ALBUM』にも収録された「ガーリッシュマインド」ではないでしょうか。

杉本:あれは始動した2000年の11月に、当時の心斎橋ミューズホール(現OSAKA MUSE)でワンマン("HEAVY DISTORTION!")をやったときの無料配布CDに入れた曲で、Waiveのド初期から思い切って方向転換した最初の1曲でしたね。そこまでの10ヶ月がどうもいろいろやっても上手くいかなくて、ここは絶対に違う方向に行かなあかん! もっと誰もやってないことをやらな! っていう気持ちで作った結果、思っていた以上のフィードバックがあったんですよ。まさにWaiveに対する認知度はあの「ガーリッシュマインド」から一気に高まりましたし、それと同時にシーンの中での"浮き方"もさらに強まったと思います(笑)。