INTERVIEW
Vorchaos
2017.02.07UPDATE
2017年02月号掲載
Member:淳(Vo) yuzo(Gt) Kaz(Gt) Fuji(Ba) Masashi“USHI”Ushijima(Dr)
Interviewer:米沢 彰
-"Björkになりたかった"Fujiさんと、ややこしい2人組ですね(笑)。淳さんはいかがですか?
淳:初めて買ったCDは、ポケットビスケッツの『YELLOW YELLOW HAPPY』(1996年リリースの2ndシングル)なんですけど(笑)、そこではバンドに目覚めず......。
Kaz:バンドじゃないからね(笑)。
淳:それで、中学生のころにL'Arc~en~CielとかHi-STANDARDあたりから影響を受けて楽器と歌うことに興味を持ち始めて。それからMUCCとかにもハマりつつ、ちょっと激しいサウンドにはSLIPKNOTとかMARILYN MANSONあたりから入って、KILLSWITCH ENGAGE、AVENGED SEVENFOLD、ALL THAT REMAINSとか、そのころのメタルコアにハマッた時期がありました。そのへんが僕のメタルの基盤にはなってると思うんですけど、いろいろ激しいものも聴いたあとにまたL'Arc~en~Cielに戻って聴いてみると、そのメロディの良さに影響を受けた部分もあったりして。そういうところもありつつ、また別にTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとかNIRVANA、FOO FIGHTERSみたいなグランジ・ロックもすごく好きだったので、そこがまた今のエモーショナルな歌い方に繋がってるのかなと思います。そこで、自分から出てきた言葉に繋げていくと、生きることだったり、ちょっとでも進んでいったり上がっていったり、みたいなことを出していけるようになって、今の歌詞にも繋がってきています。他のメンバーからすると、メロディの感じとか歌詞の感じは、どっぷり"どメタル"っていうのとは違うかもしれないですけど、それも個性でいいのかなと思ってます。
-Twitterアカウントを見たら、ちょっとこじらせた人という印象を受けました(笑)。そこは触れても大丈夫なのですか?
淳:むしろ推し出してます(笑)。時代に救われてますね。
Kaz:本人が全力で推し出してるぶん、僕たちは触れないっていう(笑)。
淳:触れないって言いつつ、何気にロボット・アニメとか強いんで(笑)。
Kaz:そうなると、がぜん僕が喋るっていう(笑)。
淳:時代の色もあって、好きなものは好きだし、影響受けてるものも音楽だけじゃないと思うので。いろんなところでいろんな人と繋がって、できてきた自分っていうのを曲で出していきたいなってことですね。
-カバー範囲が広いのは面白いですね。では、USHIの場合は?
USHI:小学校5年生くらいのときにQUEENの『Greatest Hits』(1981年リリースのベスト・アルバム)を聴いて、「Bicycle Race」にちょっと引っ張られ、「Bohemian Rhapsody」に持っていかれ、ちょうどそのころくらいにギターをゲットしたんですね。"ギターをやろう"と思ったきっかけは、QUEENの6枚目のアルバム、「We Will Rock You」、「We Are The Champions」で始まる、『世界に捧ぐ(原題:News Of The World)』です。その9曲目に「Who Needs You」っていう素晴らしい曲があるんですよ。それで最初にギターを買ったんですけど、そのあとすぐに"Roger Taylorのドラムがカッコいい!"ってハマッてやってみたら、わりとすぐにできたんですよ。
-小学生のときに?
USHI:中学校入ってすぐくらいですね、13歳のとき。そのあと、ドラム・マガジンとか買い始めて。Cozy Powellってドラマーが亡くなりましたっていう追悼の記事があって、"どんな人なんだろう?"って思って読んだら、なんかとんでもないサイズのドラムをとんでもないサイズのスティックで叩く、男らしいドラマーで(笑)。"これはたまらん!"と思ってそのころからCozy Powell にハマり、CDも買い漁って。それから、近くにRECOfanっていう中古のCDとかを扱う店があって、そこでレコードを買い漁って聴いてたら、中学の同級生のお父さんがYESの『危機(原題:Close To The Edge)』(1972年リリースの5thアルバム)を持ってきて、それでヤバい方向に(笑)。そこからまた、プログレッシヴ・ロックとかいろいろ調べて。そのころは、まだインターネットとかなかったから大変なんですよね。周りに聴く人もいないし。
-中学生でYESは普通理解できないんじゃ......。
USHI:でもなんかすごく素敵な音だと思ってKING CRIMSONも聴いたりしてたら、プログレッシヴ・メタルっていうものもあるっていうのを知って、DREAM THEATERとか買い始めて。そのころにはもうドラムを習ってたんですけど、だんだん上手くなって、どんどん難しい曲をコピーするようになったんです。そうなると、どんどん帯に"超絶技巧"って書いてあるCDを探してしまうという(笑)。それで試聴して買って、とりあえずやってみるっていうのを繰り返していて。"もっとやりたい!"って当時の先生に相談したら、"専門学校に行くよりは、Berklee College of Musicっていうボストンにある音楽学校に行ってみたら?"っていうことで、奨学金をもらって行って、そこでメタルとかロックをひととおりやらされるんですけど、一番印象に残ったのは、先生が言った"音楽は言葉である"っていう言葉で。そのころは、英語がそんなにちゃんとできなかったんですけど、音を聴いたら"あ、こうか"ってわかる。それが自分の中では非常に大きかったですね。そこではメタルをやる人がそんなに多くはなかったんだけど、それこそブラック・メタルとか80'sメタルとか90'sメタルとかのカバー・バンドを組んで、ボストン周辺をうろうろ行ったり来たりしながらライヴをやってました。そして2009年に日本に帰ってきて、ちょっとヴィジュアル系を攻めてみようと思いまして。それまで、着の身着のままやってたのを、ステージ用に作るっていうのが面白いなと。同時期に、今は活動休止してるMUっていうバンドをやってたんですけど。そのころくらいに、ロカホリ(※激ロック・プロデュースのMusic Bar ROCKAHOLIC-Shibuya-)に入って、いろんな人に会っていろんな音を聴いて、それでまた広がって。実は、PERIPHERYを最初に聴かせてくれたのは、Crystal LakeのShinyaさん(Gt)だったんですよ。プログレッシヴ・メタルとかいろいろ混ざってるDjentで、それでそういうのもフォローしてるって感じですね。
-一番ややこしいメンバーがいましたね(笑)。
一同:(笑)
-中学生でYESは......周りは誰も理解できないでしょ?
USHI:そうですね。なんでそのときに友達のお父さんがそれを持ってきてくれたのかが一番謎です(笑)。